もはや目新しい単語でもありませんが、「デジタルデバイド」という言葉があります。
e-Wordsによると、こんな意味合いだそうです。
しかし、ことカメラに関していえば、むしろその逆、タイトルにも挙げた「逆デジタルデバイド」が起こっているような気もします。
最近のデジタルカメラは高度なAE、顔検出なども使った正確なオートフォーカス、手ぶれ補正、超高感度でもノイズレスと、フィルム時代では考えられないような進化を遂げています。
ズームだって小さなカメラで簡単にできちゃいます。
それらがケータイにすら搭載されて、誰でもいつでもシャッターを押すだけで、キレイな写真が撮れるようになりました。
スマイルシャッターなどでは、場合によればシャッターさえ押す必要がないほどです。
ただ、それだけ簡単になってしまったが故、光や構図、カメラのしくみを知る機会を失っているようにも思えてなりません。
デジタルカメラの複雑な操作や新製品情報といったデジタルな情報に精通していればいるほど、アナログな知識を知る機会を喪失しているように感じるのです。
感度の低いフィルムしかない時代、ズームもなく、マニュアルフォーカス、しかも露出計すらないカメラをヒトコマ、ヒトコマ、大切に撮っていた頃、覚えざるを得なかった知識というのは決して無駄な手間だったとは言い切れないと思います。
写真が撮れるまでの理屈を知らなくても今のデジカメなら全く支障はありません。
しかし、その反面、写真をいくら撮っても、写真が撮れるという仕組みを理解する場がないのです。
実はこれはカメラという世界だけに留まらないのかもしれません。
実際にその場に出かけなくてもWebでちょっと検索すれば、いろんな場所の情報が得られ、その地の名産品がネットショッピングで購入できます。
明日の天気もレシピも贈り物から人との出会いまで、情報機器を活用すれば居ながらにして効率的にこなせるわけです。
ただ、そうした便利さの裏で、自然の勘が働かなくなっているのでは?と感じることが個人的に最近増えてきました。
失敗してもいい、自分でチャレンジした結果はすべて自分の身に残ると思うようになったのは歳を重ねたからだけではないのかもしれません。
デジタルデバイドだと優越感に浸ってばかりいて、井の中の蛙にならないようにと自戒しつつ、フィルムカメラを今日もせっせと楽しむのであります。
e-Wordsによると、こんな意味合いだそうです。
パソコンやインターネットなどの情報技術(IT)を使いこなせる者と使いこなせない者の間に生じる、待遇や貧富、機会の格差。個人間の格差の他に、国家間、地域間の格差を指す場合もある。世の中がいろいろ便利になって、特にデジタル機器を使いこなせるかどうかで格差が生じるという場面は多いかもしれません。
しかし、ことカメラに関していえば、むしろその逆、タイトルにも挙げた「逆デジタルデバイド」が起こっているような気もします。
最近のデジタルカメラは高度なAE、顔検出なども使った正確なオートフォーカス、手ぶれ補正、超高感度でもノイズレスと、フィルム時代では考えられないような進化を遂げています。
ズームだって小さなカメラで簡単にできちゃいます。
それらがケータイにすら搭載されて、誰でもいつでもシャッターを押すだけで、キレイな写真が撮れるようになりました。
スマイルシャッターなどでは、場合によればシャッターさえ押す必要がないほどです。
ただ、それだけ簡単になってしまったが故、光や構図、カメラのしくみを知る機会を失っているようにも思えてなりません。
デジタルカメラの複雑な操作や新製品情報といったデジタルな情報に精通していればいるほど、アナログな知識を知る機会を喪失しているように感じるのです。
感度の低いフィルムしかない時代、ズームもなく、マニュアルフォーカス、しかも露出計すらないカメラをヒトコマ、ヒトコマ、大切に撮っていた頃、覚えざるを得なかった知識というのは決して無駄な手間だったとは言い切れないと思います。
写真が撮れるまでの理屈を知らなくても今のデジカメなら全く支障はありません。
しかし、その反面、写真をいくら撮っても、写真が撮れるという仕組みを理解する場がないのです。
実はこれはカメラという世界だけに留まらないのかもしれません。
実際にその場に出かけなくてもWebでちょっと検索すれば、いろんな場所の情報が得られ、その地の名産品がネットショッピングで購入できます。
明日の天気もレシピも贈り物から人との出会いまで、情報機器を活用すれば居ながらにして効率的にこなせるわけです。
ただ、そうした便利さの裏で、自然の勘が働かなくなっているのでは?と感じることが個人的に最近増えてきました。
失敗してもいい、自分でチャレンジした結果はすべて自分の身に残ると思うようになったのは歳を重ねたからだけではないのかもしれません。
デジタルデバイドだと優越感に浸ってばかりいて、井の中の蛙にならないようにと自戒しつつ、フィルムカメラを今日もせっせと楽しむのであります。
ああ。なんかわかります、これ。
自分で直接体験して身につけたことと、教科書で覚えたこととの違いみたいな。
それは例えばつたない英語でも実際に外国の人と会話をした時の喜びみたいなね。もどかしさを感じつつも、必要があって会話をした時って、言葉のちからというか、役割というか、言葉の本当の必要性がわかります。それはお勉強で学ぶ英語とはまったく違うもののように思う。
実践ということはとても重い。そんな気がします。
身につくとか、身につかないとかって大切な違いだと。
投稿情報: 鍛冶哲也 | 2011/04/10 18:53
私は炊飯器なきゃご飯炊けませんし,火で炊こうとも思わないです。だからといって,それが機会損失だとも考えておらず,純粋にご飯が美味しければそれでいいです。写真に関してもほぼ同じ考えです。
とどのつまり,どんな分野に興味を持つかという純然たる 「個人の興味・趣味」 が炊飯器に向かうか写真機に向かうか,もっと他のことに向かうかだけの差では?
投稿情報: めんへら | 2011/04/14 21:55
鍛冶哲也さん、めんへらさん、コメントありがとうございます。
利便性と技術伝承は諸刃の剣のようなところがあるのかもしれません。
リスクアセスメントの観点で考えると、今よりはもう少し技術伝承のほうに重きを置いても良いのかなという気もする今日この頃です。
投稿情報: MacBS | 2011/05/16 19:29